違和感の正体
サボテン・多肉植物への関心が高まるなかで、近年はこれまで以上に希少種や珍種に注目が集まるようになってきました。
ユーフォルビアで言えば、フィリフローラ、ムルチラモサ、リグノーサ、スピネアなど、かつては一部の愛好家にしか名前を知られていなかったような種にまで光が当たるようになったことには、正直なところ驚かされます。こうした流れの背景には、SNSの普及も大きく関わっているのでしょう。
珍しい植物が注目され、その魅力が共有されることは素晴らしいことです。しかしその一方で、ある種の違和感も覚えるようになりました。
それは、こうした流れのなかで、「普及種」と呼ばれる植物たちが、いつの間にか多くの人から見放されてしまったように感じたことです。
ありふれていて、どこでも手に入る。そんな理由で、普及種は最初から評価の外に置かれてしまってはいないでしょうか。皮肉なことに、最近ではホームセンターで「かつての希少種たち」が台頭し、普及種が追いやられていることも少なくありません。


年数を経て立派な株姿に。ここから先も楽しみ
希少種の多くは、一時的に流通することはあっても、長期的に普及種になる例は多くありません。栽培困難種とまでは言わなくとも、栽培に一癖も二癖もある種が多いからです。栽培の醍醐味を感じる前に、挫折してしまう人もいます。ましてや、今のホームセンターの売り場で管理できるようなものでもありません。
普及種とはなにか
一般に「普及種」という言葉は、よく流通していて価格が安く、どこでも手に入る植物、という意味で使われがちです。しかし、ここで言いたい普及種は、そうした市場的な分類とは少し違います。
私が考える普及種とは、「長い時間をかけて栽培され、繰り返し選ばれ続けてきた植物」です。
流行によって一時的に増えたものではなく、環境の違い、栽培者の違い、時代の変化をくぐり抜けながら、それでも作られ続け、育てられ続けてきた。
つまり普及種とは、続けることができたから残った存在とも言えます。
難物と呼ばれる種を3年維持することは出来ても、10年維持できる栽培家は一握りでしょう。それほどに安定して栽培していくことは難しいものです。
普及種は形や性質がよく知られている分、新しさや驚きに欠けるように見えることもあります。しかしそれは、価値が低いという意味ではありません。繰り返し観察され、語り尽くされてきた結果、派手な言葉を失ってしまっただけなのだと思います。
普及種は、植物を理解するための基準点でもあります。成長のリズム、花の時期、環境への反応。そうした基本的な振る舞いを知っているからこそ、そこから外れた個性や違和感にも気づくことができます。
珍種や希少種が魅力的に見えるのは、多くの場合、こうした基準が無意識のうちに共有されているからです。普及種を知らずに希少種を語ることはできない、というのは言い過ぎかもしれません。それでも、その魅力を十分に味わうことは、きっと難しくなるはずです。
普及種は時間と経験を引き受けてきた結果として、いまそこにある植物なのだと思います。

ノトカクタス紅冠丸

私のサボテン栽培のきっかけは、ノトカクタスの種子を頂いたことでした。普及種のひとつで、ホームセンターでも売られているようなサボテンです。実はそれ以前に、難物のエリオシケを栽培し、見事に挫折してしまったことがありました。紅冠丸がなければ、今もサボテンを育てていなかったかもしれません。
近年、多肉植物を取り巻く環境は大きく変わりました。「珍しいもの」を手に入れること自体は、かつてよりずっと容易になっています。
その一方で、この趣味が消費のサイクルに巻き込まれているようにも感じます。次々と新しい希少種が現れ、話題になり、やがて別のものへと移っていく。
普及種は、そうした流れの外側で、この趣味の土台を支えてきました。誰かの最初の一鉢になり、誰かの最初の失敗や成功を引き受け、気づけば長く棚に残り続けている。その積み重ねが、この趣味に深みを与えてきたのだと思います。
棚を普及種で埋め尽くす必要はありません。けれど、もし一度も栽培したことがなければ、手にとって、その魅力を時間をかけて味わってみてはいかがでしょうか。そこには、流行では測れない、この趣味の醍醐味が待っているはずです。





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